よく聞く言葉で、「○○されている」という言葉、それ、何のために使っているのですか?
ちゃんと自分にコレという根拠があって使っているのでしょうか?
私はこの、ちょっとキレイに聞こえる、でも、何の根拠があって言っているのかわからない他人軸の言葉が嫌いでたまりません。
今日、たまたまクライアントさんが言ったんです。
「学ばされたんだなと思って……」
誰に……?
ねぇ、誰に……?
誰が、何のために……?
自分がある出来事で、学んだ、学習したというならわかる。
でも、学ばされたって、誰が何のために、あなたに何を学ばせたと言うの?
私は、他の他人軸で語る言葉もキライなんです。
「許された」
「教えられた」
「与えられている」
「生かされている」
誰に……?
ねぇ、誰に……?
誰が、何のために……?
上の人……?
私は、5年前、生きると決めて、命からがら断薬した。
中には断薬の禁断症状がツラくて死を選ぶ人もいる。
でも、私は娘のために生きるって決めて頑張った。
あの時生き残ったのは、誰かや何かの力で生かされているんじゃなくて、自分で生きるって決めたら、いま私は生きている。
この間死にかけて死ななかったのも、別に生かされたわけではない。
ただ単に、まだ、寿命ではなかったんだよ。
私は若い頃、比較的、苦労して来た方だと思っている。
その経験を何かのために学ばされたんだとか思うの、すごくイヤ。
何か大きなできごとがあれば、多かれ少なかれ、みんな学びになるような体験はすると思う。
でも、それを学びにするかどうか、後で活かすはどうかはその人次第。
無理やり学ばされて、学びになったと思える人はいないの。
自分自身が、そこから学び取ろうと思わなければ、後々に活かせるような学びにはならないんだよ。
なのになんでみんな、見えない力に与えられたような表現をするんだろう?
「ご縁に感謝❤」
とかいう言葉だってわからない。
縁(があったこと)に感謝するんじゃなくて、縁を持ってくれた相手に感謝するんじゃないの?
見えるもの対象の他人軸ならまだしも、なんで見えない何かのお陰……的な表現をわざわざするのはなぜ?
何の意味があるの?
物事をキレイに語ろうと、なんか見えないスピリチュアル的なものに動かされたような表現って、どんどん自分でもわけがわからなくなってしまうような気がしない?
与えられたのではなく、自分で選んだ。
自分で選んだお陰で、高い授業料を払うことになったけど学習になった。
痛い思いをしたけど、これで先に進んで行ける。
こんな風に自分軸の言葉に変えて言えば、ちゃんと自分で責任の取れる言葉にならない?
見えない何かのせいにするのではなく、自分の意思で選んでいるということを表現できれば、物事も受け止め方もどんどん変わっていくのだけれどなぁ。
自分に起きたできごとや自分の気持ちは、何か見えないものによって起こされたような表現ではなく、自分で起こしているのだという意識に変えてみようよ。
そう表現するようにするだけで、自分に対する気持ちも、自分に起きたものごとに関する受け止めかたも、どんどん変わっていくと思うんだけどな。
あ!
だからって、何でも自分の責任と思って、何でも背負えって言っているんじゃないよ!
このできごとはあの人のせい!って思うときは、堂々と
「これはあいつのせいなんだ!自分は悪くない!」
と自分の味方になってあげましょうね。
私が言っているのは、あくまでも『見えないもの』対象ね。
何事も自分のせいにしろって言っているのとは違うので、そこは誤解しないでくださいね~^^