今日のカウンセリングで起きたこと……
自分が小さい頃のお母さんは、もしかして自分を虐待していたのか?と思うほどとてもキツイ叱り方をしていた。
というクライアントの話。
その時の様子を黙って聞いていた私は
「お母さんはなんでそんな叱り方をしていたのだろう。」
と、お母さんに思いを巡らす……。
私はカウンセリングスイッチが入ると、クライアントの話が映像化して見えてくる。
それは私の頭の中にある多くのデータベースとアクセスされて出来上がった仮想映像だとは思うのだけれど、私だって、あらゆる経験をしているわけではないから、私の中のデータベースにも限界がある。
それでも私の頭の中にはどんどん映像が見えてくる。
「ねぇ、お母さんってさ……」
クライアントの言葉が途切れたとき、私は口を開いた。
クライアントにある仮説を唱えた。
お母さんの行動から、お母さんの気持ちを最大限に想像したものだったのだが、でも、それはどんなに想像したって『仮説』の域を脱することはできない。
だって本人にそれを聞いても、きっと無意識でやっていることなので、本人すら気づいていないことなのだろうから。
それでも、私もクライアントもなにか腑に落ちた。
「あぁ、きっとそうだったんだね……」
それはクライアントも数十年生きてきても予想だにしていなかった仮説。
でも、なんとなくどこか納得できてしまう仮説だった。
その仮説が本当だとしたら、クライアントは相当愛されていた。
私はこの仮説はきっと間違っていないと思う。
慰めでも何でもなく、クライアント本人……いや、母親本人の意識以上に愛されていたに違いない。
多くのクライアントの話を伺うとき……
カウンセラーは頭をフル回転させて想像力を働かせる必要があると思う。
クライアントが話してくれた『その時の気持ち』や境遇を理解してあげられるのは、どれだけその話を想像できるかによって大きな差があるのではないかとすら思う。
私は波乱万丈な人生を歩んで来た方なので、そういった意味では『経験が役に立つ』タイプ。
けれど、だからと言って全部を経験しているわけじゃないから、
ガンになった人の本当の気持ちはわからないし
残念ながらお子さんを亡くされた人の本当の気持ちはわからないし
交通事故に遭った本当の気持ちもわからないし
お子さんがいない人の本当の気持ちもわからないし
男の子のお母さんの本当の気持ちもわからないし
なにせ、男性の本当の気持ちがわからない。
でも、それをいかに『理解したい』という気持ちを持ってお話を聞くかが大切なことなんだと思うんだ。
以前、自分とタイプの違う人の気持ちを
「だってわからないし」
と受け入れようとしない人がいたけれど、自分以外の人の気持ちなんてわからないのが当然。
それを如何にわかろうとするかが、本当の意味で寄り添うということだと思う。
今日のカウンセリング中に「もしかして……」と浮かんだそれは……
「もしかして、ワシ、天才?(・∀・)」
って言いたくなるくらい、久々に「キターーーーっ!」と思うヒラメキだった。
私、通常モードのときとカウンセリングモードでスイッチの入っているときとでは、頭の回転が何百倍も違うもよう。
というのも、これ、スイッチ入れずにこの話を聞いていたら、この内容は絶対に出てこなかっただろうって自分でも思うから。
そんな天才のカウンセリング、一度受けに来てみませんか?(←おい、調子に乗るな)