ふーみんのひとりごと 親子問題

私は『親を選んで生まれて来た説』をどうしても受け入れられない

 

先日、この記事を某有名医師にシェアいただいたお陰で多くの人に読んでいただいた。
いつものことなのだけど、記事がバズってしまったりすると、次から何を書いていいかわからなくなってしまい、今回もそれで記事アップが遅れてしまった。
(直後の記事はバズる前に上げていたので……^^;)

いつまでも、バズった記事を引っ張るようなことを書いていると、またそれ狙い?と思われるかなとか、まるで違うことを書くべき?なんて思ったりして、とんと書けなくなってしまう。

でも、前回の記事も別にバズることを狙ったわけではないし、私にとってはあの発言がとても大きく、いつまでも頭に残っているので、やっぱりこのことを書いておこうと思う。
それが素直な気持ちだから。

 

数年前、『かみさまとのやくそく』という映画を見た。

この映画は胎内記憶をテーマにしたもので、「すべての子どもが親を選んで生まれてきた」と言っている。

これを見て私は、
「子どもは親を選んで生まれて来た」
という説をどうしても受け入れられないし、大嫌いだと思った。

 

正直、このことを公の場で言えるようになるまで何年もかかった。

この映画は全国のあちこちで自主上映会が開かれているもの。
上映会を主催する人は、「この映画を観て感動した!」と思って自分も主催しようと行動する。

そして、上映会に参加した多くの人がまた「この映画を見て感動した」と口々言う。

そんなシーンをたくさん見て来た私は、
「私はこの映画の内容がどうしても受け入れられなかったし、この説が大嫌いだ」
と口にすることができなかった。

だって、多くの人が同じものを観て「感動した」と口々に言う。
でも私は、まったく感動する意味がわからなかったし、反感しか持たなかった。
そんな自分を、『歪んでいる』と感じることしかできなかったからだ。

 

でも……何年経ってもこの気持ちは変わらなかったし、そのときからも多くのクライアントの話を聞いて、これが受け入れられないのは私だけではないことを知り、「親を選んで生まれて来た」という考えが返ってたくさんの人を苦しめている現実も知ってきて、私はこれを口にしようと思うようになってきた。

 

 

私は、私の親を選んで生まれて来ていない。
もっと言えば、生まれて来ようと思って生まれて来ていないと思っている。

親は私に何度も
「お前を生まなきゃ良かった」
と言った。
「お前がいなければ」
ということも言った。

それが私に対しての全否定の言葉でもなく、愚痴のひとつのつもりで言っていたのかもしれない。

私もこの言葉を聞いたからと言って生を否定されたとは思っていない。

でも「私も好き好んで生まれてきたんじゃないよ」とはいつも思っていた。
「生まなきゃ良かったと思うなら、なんで生んだの?」
いつも思っていた。

 

それでも、「生まれることを望んで生まれて来たんだよ」とか言う人はいるだろう。

でももう50歳を過ぎても、なんで生まれて来たのかわからないような私にとって、そんな言葉はただ生易しくて生温い言葉にしか聞こえない。

『かまさみのやくそく』の中では、例え虐待を受け、赤ちゃんのうちに亡くなってしまうような子でも、それを選んで生まれて来たと言っている。

なんで? どうして?
私には理解できない。

私はカウンセラーだから、生育期に苦しんで来た人とたくさん話をしている。
親子問題で悩んで来た人をいっぱい知っている。

その人たちのどんな話を聞いても
「それがあなたの役目だったのよ」
とか言えないし、話をしてくれた人たちも決して
「そんな親を選んで生まれて来た」
なんて言える状況じゃない。

選べるのだったら、私だって芸能人の親でも持って、たくさん小遣いもらって生きたかったよ。
親の七光り……どころか、14光りでももらいたかったよ。

そう思うのが当然だと思う。

 

『親を育てるために生まれて来た』……

勘弁してくれって話。
親を育てるためになんで子どもが頑張らなきゃならない?

そりゃ、親は子どもを生んだときから親1年生となって、様々なことを子どもに教えてもらう。
でも子育てで色んなことを学ぶのと、子どもに親代わりをしてもらうのは全く違う。

私が病んでいたとき……
娘を子どもとして安心して暮らせない時間を作ってしまった。

その分、私が元気になったら娘は赤ちゃん返りをした。

まだ赤ちゃん返りできた分、間に合ってよかったと思っているけれど、全く気づかず、子どもに大きな負担をさせている親を私はたくさん見ている。

親は苦しんでいることを私に相談して来るけれど、本当はそんな親と暮らしている子どもの方が何倍も親より苦しんでいることを親は知らない。

 

「叩かれるために生まれて来たから叩いていい」
親に対して言った言葉だから、子どもが相談して来たら違う言葉で子どもを救う……

そんな文章を見た。

子どもには何て言うんだろう?
私には想像がつかない。

子どもがまだ幼稚園児だったら、どうやって相談に来るのだろう?
それでそんな理屈が通るのだろうか?

親が叩くことを肯定してしまった時点で、子どもは救われない。
私はそう思う。

私はもう親になり、子どもは成人し、孫も居て、自分の子育てだけでなく、娘の子育ても見ている。
そして多くのクライアントたちの子育ても見聞きしている。

どんな親子関係も上手く行って欲しいと相談に乗っているが、片側だけに生温い言葉を掛けて救えるとは思わない。

「叩いていいんですね! そう思ったらとても楽になりました!」
と答えている相談者の言葉を見て、私は吐き気がした。

親が子どもの本当の苦しみを理解しなければ、子どもは救われない。
親が本当の意味で自立しないと、子どもは安心して自立できない。

親の最大の責任は、この世に生み出した子どもが、自分が明日死んでもこの子はちゃんと生きていけるよねと思えるくらいに自立させること。

そうさせるには、まず自分が自立しなきゃいけない。

ということを私は今、一生懸命お母さんたちに伝えている。
それはそれは精一杯。

 

親が親としての反省をしなければ、この世に生み出した子どもを幸せにすることはできない。

目の前の簡単なことを「それでいいんだよ」なんて言わなくても、どうしてその問題が起きているのかを根本的に考え、自分で気づいて行くようにしたら、きちんと自己肯定感は上げられ、皆が幸せになる形を作ることはできる。

これに気づいてくれたお母さんたちは、どんどん子育てしやすくなり、生きやすくなり、顔がみるみる明るくなって行き、相乗効果で、お子さんの表情も明るくなり家庭の空気も和やかになって行っている。

 

ただね、私のように思い続けてきた子どもたちにも伝えたいのだけど……

「やっぱり親に気づかせなければ自分は幸せになれない」
って考えるのも間違ってる。

その考え方は、親が気づいてくれない親だったら一生自分は救われないの?
って話になってしまうから。

そんなことはない。
安心して。自己肯定感は自分で上げられる。
それも意外と簡単に。

その方法は私が教えます。
間違いなく上がります。

大人になった自分が今更子どもに返って親と戦う必要はない。
親に理解してもらう必要もない。

私がこれを見つけたのも、親が死んでから。
だから大丈夫。
自分の捉え方、考え方ひとつ。
自分の中のたったひとつのことを認められれば、自己肯定感は上げられることができ、これから強く自立して生きて行くことができるようになる。

 

私は自分が精神薬を断薬するときに内観に内観を重ね、色々なことに気づき、自己を反省し、自分に起きたことを認め、納得し、腑に落とし、自己肯定感を自分で上げ、自分として生きて行くことを認めた。

私のカウンセリングは根本解決させるもの。

スピリチュアル的に考えるものでも、因果や役目とかで考えるものでもなく、また生温いその時の言葉でなんでも「いいんだよー」で済ませるものでもない。

考えるときは大変だけれど、ひとつ気づけばそれがきっかけとなりどんどん自分を軽く考えられるような気付きくことができる。

気づくべきことにきちんと気づいて行ってくれた人たちは、本当に心が楽になり、自分の軸を見つけ、自分の居場所を見つけてくれていっている。

それが私の『楽イキ!』というカウンセリング。

だから私はこれを広めたいって強く強く思っています。

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